2008年8月12日 (火)
渋谷 会計事務所日記
「言葉」
もし仮に、ある日突然、日本語の使用が禁止され、話したこともない国の言葉を使わなければならなくなったら、日本の人々はきっと抵抗するでしょう。
しかし、その抵抗が鎮圧され、この禁令がもっと強化され、テレビやラジオから日本語が消え、学校では日本語が禁止され、話したこともない国の人がつける名前に改名させられ、日本の歴史は焚書となり、すべての日本語が追放されたらどうなるのでしょう。
その時、日本語しか話せない親と日本語を話せない子供の間での意思の疎通はどうなってしまうのでしょう。
最近、作家の高史明氏が母国語を失ったことによる体験を書いた文章を読みました。
そこには親の言葉が理解できない子の苦しみと、子と同じ言葉を話せず、自分と同じ言葉を話せない子を見つめる親の苦しみが、互いの思いを言葉で伝えられない悲しみが書かれていました。
恥ずかしい話なのですが、この話を読んで言葉を失うということがどういうことなのか、あぁ、そういうことなんだと初めてわかった気がしました。
たまにテレビで外国のお年寄りが日本語を話し、日本語を話せるのは戦時中に日本語を勉強したからと言っているのをみたりしますが、日本人が英語を勉強するのと同程度のことかと思っていました。
でもそんな生易しいものではなかった人々もいたのだと、自分の無知と、想像力の欠落を彼の文章から痛感させられました。
1945年に戦争は終わったけれど、その傷を抱えたまま生きている人たちが大勢いることを忘れてはいけないと思いました。
(箕輪)